マリアさん
ある交差点で、赤信号を渡ろうとする修道女(カトリックの尼さん)を発見したお巡りさん。とっさに何と呼びかけてよいかわからず、思わず口をついて出た言葉が……
「そこのマリアさん、危ないよっ!」
私メはこの小咄が大好きである。世間がキリスト教の尼さんに抱いている好意的なイメージが集約されているようではないか。その修道女は、見ただけでもそれとわかる服装、おそらくグレーのベールとワンピースタイプの修道服をきちんと着用していたのであろう。
しかしながら近年では、修道女のすべてがこういった服装をしているわけではない。とくに私メが通っていたミッションスクールでは、もう40年近く前から修道服はほぼ撤廃され、各自が好き勝手な服装をしてよいことになった。私服となれば、髪もそれなりにセットし、靴も持ち物も別個に用意しなければならない。しかし、人並みの服装を整えるには、それなりにお金もかかるし、だいいちセンスというものも必要となる。間違い~はこのとき生まれた♪(←古いなあ(^_^;) 修道服さえ着ていれば(中身はどうあれ)そこそこ見られた彼女たちが、一気に小汚いオバサンと成り果てたのである。
そもそも修道院というところは、世のしがらみを断ち切り、「何を食べ、何を着るかを思い煩わず」に生きる場所である。修道服はそれを最も端的に象徴するものであろう。これさえ着ていれば、修道者としての認知が得られる。人間の中身なんてぇのはなかなか計り知れないモノであるが、いくら修道服が質素でも、それなりに清潔でありさえすれば爪はじきされることはないであろう。少なくとも現代の日本では。
教育者であるから、社会生活を営むのに不便だから、特別扱いを避けたいからという理由で私服を着るのも、わかったようでわからない理屈だ。なぜなら、そもそもミッションスクールのシスター先生であることを隠す必要はないわけだし、時と場所を選ばず活動するのに、修道服ほど便利なアイテムはないからである。かのマザーテレサを見るがいい。インドの最も貧しい地域で活動する時も、国家元首やローマ教皇の前に出る時も、マスコミにアピールする時も、常に白地に青線の、あの修道服にサンダル姿である。その姿を見て異議を唱える人は、おそらくいないだろう。
洋の東西を問わず、宗教および修行には事細かい規定と「型」がある。人間なんていい加減なものだから、型から入らなければ修行などできないのだ。そこのところを無視して、何がミッションスクールだ!と思い続けてン10年。言うまでもなく私メの主張なんぞは鼻であしらわれるだけだけれど、それならそれで、私メも彼女らを修道者とは認めない。100歩ゆずって教育者のカテゴリーには入れてやるとしても。形式主義と笑わば嗤え!である。
とまあ、ひとしきり毒を吐いたところで、最後にもう一つ小咄を…… 近所の教会の神父さんからスータンと呼ばれるワンピース状の僧服を預かったクリーニング屋さん。仕上がった洗濯物を伝票にどう記載してよいかわからず、思案の末に書いた言葉が、
「アーメンワンピース」
クリーニング屋さんに、座布団1枚!(~o~)
| 固定リンク











最近のコメント